行政管轄のもどかしさ
丹波ほっこり農園では現在、葡萄の直売所を出しています。
直売所の看板を出していると、色々な人が立ち寄っていただきます。
遠くは阪神地域から噂を聞い起こしいただいたり、隣町から通りがかりに立ち寄っていただいたりです。
誘導看板も出さずに直売所前に二枚の看板だけなのに、これだけの来客があるのは「三和ブドウ」の味の良さからなのでしょうか。
ところで、先日、二人の行政関係の人が立ち寄ってくれました。
一人は、お巡りさん。もうひとりは農業改良普及センターの方です。
お巡りさんは「今日は非番なので葡萄を買いにきました。
いつもこの道を通り「管内」の地域を巡回に行くのですが、この道を通らないと私が担当する「管内」の地域に行きにくいのです。
ここは私の管轄地域でないので、勤務中は立ち寄れなくて。」と言います。
一方、農業改良普及センターの職員の方は、「自分の担当の管内のA地区に行った後に管内のB地区に行く予定です。
管外のこの道を通らないと行けないので、通り過ぎようとすると看板を見て、どんな葡萄を販売しているのか向学心のため立ち寄りました。」と。
少し後ろめたさを感じながらの様子の訪問でした。
お二人ともにありがたいお客さんですが、行政の職員の「管内」、「管外」意識の強さを痛感しました。
昔、ドリフターズのコントを思い出します。県境に死体があり、A県のお巡りさんが自分の管内にある死体を発見。
すぐさま隣のB県に引っ張り出し立ち去る。すぐさま、B県のお巡りさんが現場に来て、今度はその死体をA県に引っ張り戻すという繰返しの責任転嫁のコントです。
「管内」は権限と責任の及ぶ範囲を示す重要なファクターなのです。
自分の担当外の「管外」で指導などをすると、権限のない者の行為になりトラブルの原因になります。
また、その地域を管轄する本来の担当職員がこのようなことを聞けば権限を侵されたようで不愉快になるようです。
規律でがんじがらめの今の行政。
通りすがりに他の地域の事情をついでに見聞する程度の「遊び」のこころを行政マンには期待したいです。
お二人の行政関係職員の訪問に感謝感激!!
「一線を守る。」
葡萄の出荷の峠を越えたところです。
出荷している時に、
「この葡萄、祖母が大好きでいつも買っています。いつまでありますか。美味しいですね。」と声を掛けてくれるお客さんがいます。
この一言にやり甲斐を感じます。
また、この一言のために質にこだわっています。
ところで、最近の政界は「一線は越えていません。」という話が多いですね。
「倫理上の越えてはならないことをはしていない。」ということでしょうが、この一線は自ら引いて、その引いた線を越えてないと主張します。
あくまでその倫理線は自ら引いていますので主観的なものです。
果物や野菜の出荷基準も直売所が定める基準の他は、自らで糖度や形、風袋などを定めて出荷しています。
売るためには粗悪品でも出してやれとなると、自ら引いた線(基準)を破ることになります。
会社などの組織体では内部牽制で一線を越えたり、一線を破ったりできないよう法人倫理を定めている場合が多いです。
自ら引いた線を守る倫理的行動基準をしっかり定めて置く必要があります。
しかし、つい色々な事情で揺ぎが生まれ、一線を越えてしまう場合があります。
世間の大多数が考える一線(これはある程度、客観性があります。)を越えた場合は素直に認め、倫理基準を見直し、リセットすべきでしようね。
しかし、「一線を越えない」日々の様々な行動って、個人でも法人でも、政治家でも農家でも商売人でもそれぞれ実は大変、難しいものです。
秋の月 なんとかなしに 艶かし(呆悦)
会話は何となく成り立つもの
葡萄の出荷時は、作業が輻輳しますので、一時的に社長のお母さんとヴェトナムの実務研修生に葡萄の箱詰めをしてもらいます。
おばちゃんは、丹波ほっこり農園のある村から一度も他の地域で住んだことがなく、「純粋」に「丹波大身弁」を話されます。
おばちゃんと研修生との会話を楽しみながら、出荷作業に勤しんでいます。
次は、ある一日の会話ですが、何とか会話は成立しています。安心安心!
「この葡萄はいたいけななぁ。」
「しないこいのはダルに入れておいて。」
「オバァチャン、ソレハ、ドコニアリマシタカ?」
「そこの裏(後ろの意)にあるやろう。」
「ちっとも悪い葡萄はないなぁ。」
「せやけど、今日はほめくなぁ。」
「ハイ、キョウハホメクノウ。」
「せんぐり、せんぐり電話がかかるなぁ。」
「うちの携帯電話番号はデロハチデロ・・」
「ひっさ、会わへんだ人やったわ。」
「じっきに名前が思い出せなかったけど。」
「これはしがんだ房やなぁ。」
「まぁぴりぴりしてきたで。窓閉めなよ。」
「ハイ、マドシメマスカ?」
「葡萄箱がひしゃげるさかいなぁ。」
「○○ちゃん、取りにきたったかい?」
「ハイ、キマシタ。オカネハココオキマシタ。」
「お金は、でつたい、なとべとかなあかんで。」
「ハイ、ワカリマシタ。」
「今日は、しまおかいなぁ。」
「ハイ、コレハドコ ナ ト ベ マスカ?」
「裏のえげに置いておいて。」
「・・・・?」
扇風機 終う間なく鈴虫越し(呆悦)
「秤売り」の賛否
葡萄の出荷、販売の最盛期です。
箱詰めやパック詰めの作業で一日があっという間に過ぎます。
次から次と注文が入り、ありがたいことです。
直売所といえど見映えのする化粧箱に入れて販売しますが、日本人は包装にこだわります。
スーパーの野菜もほとんどの包装しています。
外国の露店商などで山積みされた野菜や果物を片言の言葉で交渉しながら買い物する楽しみがあります。
日本では味わうことができなくなりました。
丹波ほっこり農園の直売所では葡萄のいわゆる「秤売り」も行っています。
ひと房の目方を量り、値段を決めるやり方です。
こちらの手間も省け、端数の目方はおまけすることも。
自然に成っていた状態でお渡しできることを喜ばれる方もおられます。
何よりいいのは、この売り買いでは会話が多く生まれることと包装資材がいらないことです。
日本の過剰包装状態は、日本の国土をゴミで埋め尽くすことになります。
全ての商品を秤売りすることは、できないものの、地球環境と食品衛生をにらみ会わせながら、もう少し売り方を考える時期に来ているのではないでしょうか。
宿題を 抱え登校 すすき凪ぐ(呆悦)
木の襞
葡萄園の入口に大きなケアキの木があります。
そのケアキの木陰は葡萄園のオアシスとして草刈の休憩所として涼しさを提供してくれます。
ありがたい存在です。
来週から葡萄の販売を開始しますが、この一年間の葡萄の成長を高い視点から見守ってきてくれたケアキの木に感謝します。
そのケアキの木に葡萄園の改殖の際に重機が当たった傷なのか、よくわかりませんが、樹皮を必死で修復しようとする「襞」があります。
心の襞を沢山持つ人は、他人の苦労や傷みを理解してくれるといわれます。
自分の人生において幾多の苦労を経験し、積み上げ、心にひとつひとつ襞を刻んできたのでしょう。
それは、まるで空冷のエンジンのように表面積を襞で大きくし、キャパシティのある心で他人の傷みを受け止めているのです。
そんな存在になれるよう歳を重ねたいものです。
このケアキの木も外部から傷つけられた過去を糧に襞を作り、更に逞しく成長し、これからも高くから葡萄園を見守ってくれたらいいなと思っています。
因みに、このケアキの木の襞から自然界の不思議な現象に想像を膨らました一日でした。
身心脱落
施餓鬼という供養が先日、地元のお寺でありました。
曹洞宗の禅寺です。
この供養の始まる前にこんな掛軸を見つけました。
「身心脱落」と揮毫されています。
夏の暑さにまいり、身体も心も疲れて力がなくなったことのように解釈しそうですが、後で調べたところ、曹洞宗の開祖 道元法師が語られた言葉のようです。
この世の中、人びとは煩悩にとりつかれていて、なかなかその煩悩から逃れられません。
他人を羨望したり、他人とむやみに競争したり、他人を非難したりばかりです。
その煩悩を逃れられない訳は自分に自信が持てないからなのではないでしょうか。
それゆえに他人と比較してしまうのです。
他人と比較せず、自分自身の昨日と比較して
一日一日、成長している自分を確認するのことが第一歩と考えますが、これがなかなかできません。
道元法師は、これよりも先の心身ともに全ての煩悩から解脱(脱落)すること、すなわち自己を忘れ去ることが必要と。
自己を忘れ気分が清々しく晴れ渡るためには、道元法師は座禅によるべきと。
現代の日常生活で長時間の座禅はできません。
当面、この夏は昼間の暑さと労働の疲れから、座禅の替わりに睡眠で煩悩から解脱したいと考えていますが、道元法師にお叱りを受けるかもしれません。
秋空を 墨流し雲 覆いたり(呆悦)
葡萄園に成ったスイカ🍉
お盆を過ぎて朝夕は過ごし易くなってきましたが、日中はむしろ暑さが厳しくなった感もあります。
暑い日中の外仕事の後は、何と言ってもスイカが一番。
汗で排出した水分補給にはもってこいの食べ物です。
今日、ヴェトナムの実務研修生が「葡萄園にスイカがなっていますので採ってきます。」と言って走り出した。
葡萄園にスイカが成るとは不思議だなと思っていると、直ぐにスイカを採って来ました。「葡萄園のどこになっていたの?」と聞くと、「この先の葡萄園の柵の中です。」と、言います。
どうやら、葡萄園の近くのおじさんが葡萄園の隣の自己所有の畑で丹精込めて育ているスイカなのです。
毎日、おじさんはスイカの栽培に情熱を込めていますので、スイカのツルは勢いよく伸びています。
そのため、スイカのツルが勢い余って、畑から葡萄園に浸入し、葡萄園の柵の中に実を着けたモノなのです。
おじさんが丹精込めて栽培しているのに自分の畑には成らなくて、我々が管理している葡萄園の中に成るとは皮肉ですが。
法律的には、境界を越えて成った果実は、越えて浸入された側に処分権があるとされているものの、丹精込めて栽培されているおじさんの顔を思い浮かべると直ぐには我々だけでは食べられません。
おじさんはいつも、このブログを読まれいると聞いています。
「おじさん、会社の事務所にまだ食べずに冷蔵庫に入れて冷していますので、明日、食べに来てください。」と言わずにはおれない暑い夏の夜です。
西陽差す 武者振り食らふ スイカかな(呆悦)