ハレの日とケの日
昨夜の夕食はインスタントのワンタン麺のみとなりました。
具は卵と菊菜が入っているのみです。
ひとりだけの食事を作るのは、作る意欲が出ませんし、めんどくさいです。
現在の日本は、毎日が○○記念日のハレの日のような豪華な飽食の食事になっています。
昔の農村では、年に正月と盆の二回だけニワトリを食べ動物タンパクをとり、平素は粗食でした。
ハレとケの日の食事がはっきりしていたのでした。
もう一度、日本の飽食文化を見直し、メリハリのある食生活に戻り、毎日の食材に感謝できる「奉食」に戻す。
このことがメタボの解消し、健康を維持することに繋がるのではないでしょうか。
しかし、ワンタン麺だけでは良くないでしょうね。
素麺の 箸に二筋 掛かりたり(呆悦)
健康は気持ち
昨日は健康診断の受診日でした。
忙しいのに邪魔くさいなぁと思いながら受診しました。
世の中は「健康」と「健康食品」ブームです。
テレビやネットで話題になった健康法や健康食品は翌日には大人気になりますが、一週間程度でブームは立ち消えてしまいます。
これによる食品等のロスも増えているようです。
何と日本人は乗りやすく覚めやすいのかとつくづく思います。
また、消費者だけでなく、それに乗っかる生産者や流通業者さんもたくさんいます。
この現象の背景には、国民の健康に対する不安が付きまとっていること、急増する国民医療費抑制の効果を狙う思惑もあるのでしょう。
健康に暮らしたいと思う気持ちは皆んな同じですが、健康にお過ごしの方は、もう少し自分の「健康に自信」を持つことが必要と思います。
一方、生産者は自分が作っているモノにもう少し自信を持つて、ブームにあまり流されないことががいい結果を招くのではないでしょうか。
新じゃがや 今日も快便 ありがたし(呆悦)
お客様とのふれあい
丹波ほっこり農園では昨年から丹波黒豆の枝豆を国道沿線の直売所で販売を始めました。
先日、黒豆の植え付けの畑が完成。
あとは黒豆の苗が育てば植え付けます。
直売所で直接、商品を売るということは消費者の声が直に聞けることと
お客様とのコミュニケーションが出来ることです。
トラックの運転手さんは、
「昨日はなんでやっていなかったんや。」とか「会社でみんなで食べたらおいしいかったので、今日も買うわ。」と話して来るので、全く関係ない話しになったりして、参考になることもしばしば。
農産物の場合は特に、生産者の不細工でもいいから顔と人となりを全面に曝け出すことが消費者の安心感に繋がります。
また、消費者のみなさんの声を直接聞くことによって、もっとおいしいものを届けたいとする生産意欲も涌き出してきます。
今年の秋口に国道9号を通り掛かり、丹波ほっこり農園ののぼりを見たら是非、声をかけください。
雑草にも 渇き潤す 芒種かな(呆悦)
六感で味わう季節
栗の花が咲き出しました。
季節は夏に突入一歩前です。
しかし、夏本番までには一ヶ月の梅雨を経ねばなりません。
この梅雨も農業には大切な季節です。
農村のこの季節を六感で表現しますと、
眼には夏草の緑色、
耳には早朝の小鳥の聲、
舌には山椒のピリピリ、
肌にはカラッとした涼風、
心には今年もあと一ヶ月で半年が早くも経過したという実感、
そして、鼻には何と言っても栗の花の匂い。この季節から村中に漂い始めます。
強烈な匂いは、確実に生命を後世に伝える雄蕊の意思を感じとれます。
栗の花 精根尽きて 床に着く(呆悦)
親鸞聖人の気持ち
久しぶりに都に来て、時間が有ったので京都駅から京都御所近くまで歩きました。
途中に東本願寺の塀に親鸞聖人御遠忌750年の法要の時に掲げられたテーマ「今、いのちがあなたを生きている」の標語を見ることができました。
何年もこの標語の意味が分からず、悩み続けた日々が懐かしかったことを思いだします。
三年前にやっとある程度、意味が分かった時に胸のつかえが取れました。
それは中国語の併記によって分かったのです。
「現在、生命伴随着ニィー」と中国語で書かれていたからです。
「今、あなたの身体のなかを脈々といのちが息づいています。
祖先から受け継いだ、かけがいのないこのいのちを大切に後世に伝えていく使命をあなたは負っているのですよ。
生けとし生けているすべての命を大切に。」と解釈したのでした。
田舎で農業に従事していて、都会にたまに出ていくと、付加価値を高めてカネを落として貰おうと必至にディスプレイを凝らすまちがあります。
そんなまちの雑踏の中で、この親鸞が説いた気持ちが清々しく思えます。
茜雲 明日も晴れるか 梅雨間近(呆悦)
「木強」の気質
先日、ある早朝の講演会で福知山にある大学の学長からお話しを聞きました。
この丹波地域の人びとの気質を江戸時代の書物で紹介され、その中で「木強(ぼっきょう)」の精神が失われていると。
「木強」とは飾り気がなく一徹な様で、武骨という意味です。
丹波地域は都に近く都への農作物の商いで糧を得て、都の華やかな風情に触れる機会が多く浮かれ、田舎らしさがなくなり木強でないという。
これが今の気質にもあるのか。
学長先生はもともと福知山の出身ということもあり、このことを否定せず、心を開いて率直に話しあえる風土であってほしいと。
先生の本心は、今までの福知山ではダメで市民ひとりひとりの変革への目覚めが必要だと辻説法の如く言いたかったのかもしれないと感じました。
福知山には去年、新しい公立大学ができましたが、福知山市の財政規模からいって、身の丈にあっているかどうかは甚だ疑問です。
しかし、できた以上はいかに市民が大学を使うかが重要で、率直な市民と大学との意見交換と「刺激合い」が必要ですが、、、。
あぜ道の たばこ吸う背に てんとう虫(呆悦)