村の情報発信屋台の完成
「スーパー/コンビニ空白地帯14km」の解消を目指したい話(2017.5.1ブログ)をしましたが、「村営オワシス百貨店」の第一歩となる野菜直販の屋台が完成しました。
村の長老の大工さんのおじさんに材料費だけで手間賃はボランティアで造っていただきました。
おじさんには感謝感激です。
プロの大工さんの仕事だけに立派な仕上がりです。
昨日から早速、丹波黒豆の枝豆を直販しています。
商品を置く棚の下には大人二人が昼寝できる位の物置きスペースも完備しています。
この屋台の造作については、村の農事の役員会で村の野菜直販所の設置を提案しましたが、時期尚早的な意見がありました。
そうすれば、丹波ほっこり農園が屋台を造り枝豆や野菜を販売し、村の有志も出荷すること可として実績を作っていくことになった経過があります。
村の評判はまだ聞きませんが、何はともあれ屋台の完成が第一歩として村のオアシスの礎が出来たことはうれしいものです。
なお、土台にはコロが付いており、移動することも可能で、手を加えれば赤提灯を提げ、おでんかラーメンをなども提供できます。また、イベントにも出店できます。
何れにしても色々な形で村のオアシスになることは確かでしょう。
夜冷えや 遠くチャルメラ 微かなり(呆悦)
握手の効用
衆議院選挙を次の日曜日に迫り、過疎地の村にも選挙カーがやって来ます。
こんな過疎地に来ても多くの票には繋がらないだろうなと思って、手を止めずに仕事を続けていました。
すると、候補者が選挙カーから降りて来て膝まづき話しかけてきます。
折角などで、この地域事情や農業、農村のことなど15分間程度、話をしました。
最後に私から「当選しても落選しても、枝豆が好きだったら来週にも枝豆買いに来てや。」と告げると候補者はハイと言って握手を求めてきました。
私は枝豆の揃えの仕事で手が汚れているため躊躇していました。
「いやぁ、手が汚ないので。」と断るも握手を求めるので応じました。
久しぶりに握手という行為をしました。
2年半前に前の職場を定年退職した際に沢山の人と握手して以来のことで緊張しました。
掌(たなごころ)は粘膜質の皮膚です。
仮に手の甲のような皮膚で握手をするのであれば、たぶん握手という行為は存在しなかったでしょう。
また、仮に唇が頬と同じような皮膚であったらキスという行為は存在しなかったでしょう。
選挙の時や政治家は握手を有権者に求めます。
掌が粘膜質であるから、握手はその人の気持ちや体調が伝わります。
それゆえ、握手は相手との距離感をグッと引き寄せる行為であること政治家は知っているのです。
また、政治家の多くは権力を掌(て)にするためには掌(てのひら)を返すこともすんなりとすることができるのです。
そんな握手の効用や掌を再認識する機会になりました。
秋雨の 合間に漂う 燻べ雲(呆悦)
枝豆の販売開始
雨続きの鬱陶しい天候が続きます。今日は少し晴れ間が覗いてくれました。
その晴れ間の隙に国道9号線の脇に丹波黒豆の枝豆の直販所を設置し、販売を開始しました。
5月の末に播種しましたが、4ヶ月半が過ぎ、やっと食べ頃になりました。
食べ方はシンプルに塩茹でが一番だと思います。
シンプルな食べ方が合う丹波黒豆。
塩もみのあと、熱湯で10分程度茹でるだけ。
野菜のゆで方は「根菜類」は水から茹でますが、枝豆は沸騰した湯に入れ茹でます。
「ゆでカエル理論」という話があります。
熱湯にカエルを入れるとその熱さに気がつき飛び出します。
しかし、水にカエルを入れ徐々に加熱していくとその変化に気がつかずゆで上がってしまうという警鐘を鳴らすものです。
私達の毎日の生活で日々、刻々と目には見えませんが変化している現象があります。
昨日と比べて変化したかと問われれば何も変わっているようには感じられません。
しかし、例えば5年や10年単位でみてみますとその変化に驚かせられるということがあります。
沸騰した湯で茹であがる枝豆を見ながら、先を見透す農村や農業の在りかたを考えていかねばと思いました。
秋雨に 茹で枝豆の 青冴える(呆悦)
小学校の統合と廃止
丹波ほっこり農園のある地域の小学校が平成31年3月末に廃止され、旧町の中央地域で小中一貫校に統合されます。
150年近くの歴史に幕を閉じます。
過疎化と少子化で小学生の数が減少しているので仕方ないことではあるが、母校がなくなるのは、やはり淋しい限りです。
小学校の廃止は地域の活力をさらに減退することは間違いないと思います。
市では統合後の小中学校の施設整備や教育などの在りかたを鋭意検討されているようであるが、廃止される小学校施設をどう地域で活用するのかの議論が殆ど聞こえてこないのは、さらに淋しいです。
行政は統合という新しい枠組みづくりには力を注ぎますが、廃止される施設は忘れがちになる傾向にあることは世の常です。
小学校は子供の教育の場と同時に地域の象徴としての地域コミュニティの中心施設であります。
その跡地を地域で何に使うのかは、過去の地域の小学校の跡地活用事例を検証しても明らかなように「地域力」が現れます。
地域が考えないと行政は考えません。
地域から早い目に地域としてこんな活用をしたいとする意見を市に伝えていくことが必要と思います。
里山に囲まれた自然力を武器にし、ヒト、モノ、カネ、情報が大きく交流できる施設に転換してもらいたいものです。
トラックに乗った神輿
遂に村の秋祭の神輿がトラック搭載による巡行になりました。
数100年以上続いた神輿を担ぐ慣行が今年で終わりました。
残念ですが、若手の人材人不足が原因です。担ぎ手が少ないと落下させるなどの事故も心配され、村の責任者の判断で、トラック搬送巡行になったのです。
私達の子供の頃の1960年代は村中の辻々には人びとが溢れかえり、大変な賑わいであったことを思い出します。
神輿の担ぎ手は観衆が居てこそ、重い神輿をできる限りの力で担げるのです。
観衆が居てこその神輿巡行なのです。
ところで、今日は衆議院選挙の告示日です。
担がれる人だけがこじつけの理由で選挙をすると言い切り、担がれる人だけがあの人と一緒に神輿には乗りたくないとか言い出します。
観衆は不在の蚊帳の外にいます。
担がれたいと主張する人より、この人なら担ぎたいと思う人がいる観衆主体の選挙にならんことを望みたいものです。
トラックに載せられた神輿が何気なく淋しさを漂わせている秋祭でした。
神輿あり まばらに凪ぐや すすきかな(呆悦)
葡萄の大義
8月25日から開始しました葡萄の収穫と出荷が今日、9月22日に終了しました。
お買い上げいただきました皆様のご愛顧に感謝申し上げます。
皆様の「美味しかった。」のお声掛けをいただき、この一声を胸に来年の出荷に向かって来週から葡萄のお世話に入ります。
直売所を開いていると毎日、葡萄を買いに来てくださるおじさんがいます。
直売所を開いている日は、毎日です。
私達の農園から買って横流しをしているのではないかと疑うほど毎日です。
横流しするなら10Kg以上の単位で買いそうですが、このおじさんは毎日、1kgぐらいを買うのです。
これだけ毎日なので、当然、顔見知りになり仲良しになります。
葡萄を誰に贈るのか、失礼ながら、彼女に贈るとしても毎日、贈る彼女も多数いる風体でもない。
ある日、「おじさんのお名前を教えてください。
まさか「房雄」さんというのではないですか。」と冗談で問いかける。
「なんでや、私は○雄という者や。なんで房雄と思ったんや。」
「だって毎日葡萄を買ってくれるので、なんとなく葡萄の房の房雄さんと思いましたんや。」
その後、毎日買う理由を聞いて見ると、毎日、一房は自分だけで食べると言います。
今日は葡萄販売の最終日だったので、明日とあさっての分も合わせて買っていいかと、奥様に携帯電話で問い合わせて、今日と明日とあさっての3日間の分という大義で3kgを買い上げいただきました。
可愛い「房雄おじさん、ありがとうございました。」
虫の音や 針に糸通す ひとり暮らし(呆悦)
農村の免許返上の危機
人生の 秋来たるらし ポポ落つる(呆悦)
庭先のポポ(ポーポー)の樹から果実が熟して音もなく落ちます。
ポポ(ポーポー)はドリアンやマンゴーのような果物で、北米原産でアケビガキとも呼ばれ熟すと落下し、その頃が食べ頃です。
熟すと表皮が黒ずんできますので、流通に乗りにくく、まさに地産地消の幻の果物です。
独特の匂いがあり人によっては好き嫌いがありますが、ネットリとした食感がいかにも栄養分の高さを窺える果物です。
ところで、高齢社会で高齢者の自動車事故が社会問題化し運転免許を返上する事例が増加しているようです。
しかし、過疎地の高齢者は返上率が都会に比べて低いようですが当然のこと思います。
過疎地の独居高齢者から車を取り上げると、公共交通機関の不便さから買い物や通院も困難になります。
事故多発防止と過疎地の高齢者の快適な移動手段のジレンマを解決する手法の模索が全国各地で行われいます。
「熟したポポは流通に乗りにくいため、自宅で消費する。」と同じように地域の宝の高齢者を自宅に閉じ込め社会から孤立させてはなりません。
そのためには、政府やメーカーは、高級な自動運転自動車の普及より「高齢者仕様の自動運転車(軽自動車など)」の普及にもっと力を入れてもらいたいものです。
あと20年後には自動車運転免許を返上し、ポポのように熟して庭先でひとり朽ちている姿を想像すると、過疎地の秋の夕暮れはひときわ淋しさを覚えます。