会話は何となく成り立つもの
葡萄の出荷時は、作業が輻輳しますので、一時的に社長のお母さんとヴェトナムの実務研修生に葡萄の箱詰めをしてもらいます。
おばちゃんは、丹波ほっこり農園のある村から一度も他の地域で住んだことがなく、「純粋」に「丹波大身弁」を話されます。
おばちゃんと研修生との会話を楽しみながら、出荷作業に勤しんでいます。
次は、ある一日の会話ですが、何とか会話は成立しています。安心安心!
「この葡萄はいたいけななぁ。」
「しないこいのはダルに入れておいて。」
「オバァチャン、ソレハ、ドコニアリマシタカ?」
「そこの裏(後ろの意)にあるやろう。」
「ちっとも悪い葡萄はないなぁ。」
「せやけど、今日はほめくなぁ。」
「ハイ、キョウハホメクノウ。」
「せんぐり、せんぐり電話がかかるなぁ。」
「うちの携帯電話番号はデロハチデロ・・」
「ひっさ、会わへんだ人やったわ。」
「じっきに名前が思い出せなかったけど。」
「これはしがんだ房やなぁ。」
「まぁぴりぴりしてきたで。窓閉めなよ。」
「ハイ、マドシメマスカ?」
「葡萄箱がひしゃげるさかいなぁ。」
「○○ちゃん、取りにきたったかい?」
「ハイ、キマシタ。オカネハココオキマシタ。」
「お金は、でつたい、なとべとかなあかんで。」
「ハイ、ワカリマシタ。」
「今日は、しまおかいなぁ。」
「ハイ、コレハドコ ナ ト ベ マスカ?」
「裏のえげに置いておいて。」
「・・・・?」
扇風機 終う間なく鈴虫越し(呆悦)
「秤売り」の賛否
葡萄の出荷、販売の最盛期です。
箱詰めやパック詰めの作業で一日があっという間に過ぎます。
次から次と注文が入り、ありがたいことです。
直売所といえど見映えのする化粧箱に入れて販売しますが、日本人は包装にこだわります。
スーパーの野菜もほとんどの包装しています。
外国の露店商などで山積みされた野菜や果物を片言の言葉で交渉しながら買い物する楽しみがあります。
日本では味わうことができなくなりました。
丹波ほっこり農園の直売所では葡萄のいわゆる「秤売り」も行っています。
ひと房の目方を量り、値段を決めるやり方です。
こちらの手間も省け、端数の目方はおまけすることも。
自然に成っていた状態でお渡しできることを喜ばれる方もおられます。
何よりいいのは、この売り買いでは会話が多く生まれることと包装資材がいらないことです。
日本の過剰包装状態は、日本の国土をゴミで埋め尽くすことになります。
全ての商品を秤売りすることは、できないものの、地球環境と食品衛生をにらみ会わせながら、もう少し売り方を考える時期に来ているのではないでしょうか。
宿題を 抱え登校 すすき凪ぐ(呆悦)
木の襞
葡萄園の入口に大きなケアキの木があります。
そのケアキの木陰は葡萄園のオアシスとして草刈の休憩所として涼しさを提供してくれます。
ありがたい存在です。
来週から葡萄の販売を開始しますが、この一年間の葡萄の成長を高い視点から見守ってきてくれたケアキの木に感謝します。
そのケアキの木に葡萄園の改殖の際に重機が当たった傷なのか、よくわかりませんが、樹皮を必死で修復しようとする「襞」があります。
心の襞を沢山持つ人は、他人の苦労や傷みを理解してくれるといわれます。
自分の人生において幾多の苦労を経験し、積み上げ、心にひとつひとつ襞を刻んできたのでしょう。
それは、まるで空冷のエンジンのように表面積を襞で大きくし、キャパシティのある心で他人の傷みを受け止めているのです。
そんな存在になれるよう歳を重ねたいものです。
このケアキの木も外部から傷つけられた過去を糧に襞を作り、更に逞しく成長し、これからも高くから葡萄園を見守ってくれたらいいなと思っています。
因みに、このケアキの木の襞から自然界の不思議な現象に想像を膨らました一日でした。
身心脱落
施餓鬼という供養が先日、地元のお寺でありました。
曹洞宗の禅寺です。
この供養の始まる前にこんな掛軸を見つけました。
「身心脱落」と揮毫されています。
夏の暑さにまいり、身体も心も疲れて力がなくなったことのように解釈しそうですが、後で調べたところ、曹洞宗の開祖 道元法師が語られた言葉のようです。
この世の中、人びとは煩悩にとりつかれていて、なかなかその煩悩から逃れられません。
他人を羨望したり、他人とむやみに競争したり、他人を非難したりばかりです。
その煩悩を逃れられない訳は自分に自信が持てないからなのではないでしょうか。
それゆえに他人と比較してしまうのです。
他人と比較せず、自分自身の昨日と比較して
一日一日、成長している自分を確認するのことが第一歩と考えますが、これがなかなかできません。
道元法師は、これよりも先の心身ともに全ての煩悩から解脱(脱落)すること、すなわち自己を忘れ去ることが必要と。
自己を忘れ気分が清々しく晴れ渡るためには、道元法師は座禅によるべきと。
現代の日常生活で長時間の座禅はできません。
当面、この夏は昼間の暑さと労働の疲れから、座禅の替わりに睡眠で煩悩から解脱したいと考えていますが、道元法師にお叱りを受けるかもしれません。
秋空を 墨流し雲 覆いたり(呆悦)
葡萄園に成ったスイカ🍉
お盆を過ぎて朝夕は過ごし易くなってきましたが、日中はむしろ暑さが厳しくなった感もあります。
暑い日中の外仕事の後は、何と言ってもスイカが一番。
汗で排出した水分補給にはもってこいの食べ物です。
今日、ヴェトナムの実務研修生が「葡萄園にスイカがなっていますので採ってきます。」と言って走り出した。
葡萄園にスイカが成るとは不思議だなと思っていると、直ぐにスイカを採って来ました。「葡萄園のどこになっていたの?」と聞くと、「この先の葡萄園の柵の中です。」と、言います。
どうやら、葡萄園の近くのおじさんが葡萄園の隣の自己所有の畑で丹精込めて育ているスイカなのです。
毎日、おじさんはスイカの栽培に情熱を込めていますので、スイカのツルは勢いよく伸びています。
そのため、スイカのツルが勢い余って、畑から葡萄園に浸入し、葡萄園の柵の中に実を着けたモノなのです。
おじさんが丹精込めて栽培しているのに自分の畑には成らなくて、我々が管理している葡萄園の中に成るとは皮肉ですが。
法律的には、境界を越えて成った果実は、越えて浸入された側に処分権があるとされているものの、丹精込めて栽培されているおじさんの顔を思い浮かべると直ぐには我々だけでは食べられません。
おじさんはいつも、このブログを読まれいると聞いています。
「おじさん、会社の事務所にまだ食べずに冷蔵庫に入れて冷していますので、明日、食べに来てください。」と言わずにはおれない暑い夏の夜です。
西陽差す 武者振り食らふ スイカかな(呆悦)
「一燈照隅 万燈照国」を思う。
この前、あまりに暑いので、避暑がてらに休暇を利用して、比叡山にバイクで頂上まで登り、最澄が開いた延暦寺根本中堂にお参りしてきました。
開山から1200年も一度も絶やすことのなかった燭燈を拝んできました。
ドライブウェイのところどころには「一隅を照らす」の標識があります。
根本中堂の薄暗い一角を照らし続けた灯りのように一隅を照らし続ける努力により、遂には国全体を照らす力になるという意味でしょうか。
狭い地域で地道な小さな取り組みが、遂には評価されて各地で模範になり、全国的な取組に発展することは、よくあることです。
国家戦略特区の獣医学部新設で議論されている「今まで認められなかった固い岩盤にドリルで穴を開け、これが良ければ全国展開する。」というのとよく似ているようですね。
兵庫県養父市の農業関係の特区は、評価は別としてあまりにも有名ですが、国家戦略特区の代表例です。
そもそも特区とは秀吉が行った「楽市楽座」の発想とは基本的には同じものだと思いますす。
一定の地域に限って特例で色々な規制を緩和したり免除したりして産業を伸ばしたり富を蓄積させたりすることです。
しかし、その対象地域はそもそもその特区事業がよく発達していることが前提とすべきでしょう。
今回の獣医学部の新設の件は、対象にした題材と対象地域を誤っているのではないでしょうか。
これまでも一生懸命、畜産振興に取り組み、全国的に見ても先駆的地域でさらに、この取り組みを伸ばすために、規制などを緩め、それが成功すれば後進的地域にも拡げることが本来の特区ではないでしょうか。
そもそも、お友達云々の前に、獣医師を増やす人材育成事業の規制緩和を国家戦略特区にしたことに戦略を誤ったと思います。
スピードで成果を焦るより、長年の地道な努力により成果をあげ、全国の隅々までいい取り組みとして拡げる「一燈照隅 万燈照国」の施策を、あまり期待せずに実現することを待っています。