枝豆の販売開始
雨続きの鬱陶しい天候が続きます。今日は少し晴れ間が覗いてくれました。
その晴れ間の隙に国道9号線の脇に丹波黒豆の枝豆の直販所を設置し、販売を開始しました。
5月の末に播種しましたが、4ヶ月半が過ぎ、やっと食べ頃になりました。
食べ方はシンプルに塩茹でが一番だと思います。
シンプルな食べ方が合う丹波黒豆。
塩もみのあと、熱湯で10分程度茹でるだけ。
野菜のゆで方は「根菜類」は水から茹でますが、枝豆は沸騰した湯に入れ茹でます。
「ゆでカエル理論」という話があります。
熱湯にカエルを入れるとその熱さに気がつき飛び出します。
しかし、水にカエルを入れ徐々に加熱していくとその変化に気がつかずゆで上がってしまうという警鐘を鳴らすものです。
私達の毎日の生活で日々、刻々と目には見えませんが変化している現象があります。
昨日と比べて変化したかと問われれば何も変わっているようには感じられません。
しかし、例えば5年や10年単位でみてみますとその変化に驚かせられるということがあります。
沸騰した湯で茹であがる枝豆を見ながら、先を見透す農村や農業の在りかたを考えていかねばと思いました。
秋雨に 茹で枝豆の 青冴える(呆悦)
小学校の統合と廃止
丹波ほっこり農園のある地域の小学校が平成31年3月末に廃止され、旧町の中央地域で小中一貫校に統合されます。
150年近くの歴史に幕を閉じます。
過疎化と少子化で小学生の数が減少しているので仕方ないことではあるが、母校がなくなるのは、やはり淋しい限りです。
小学校の廃止は地域の活力をさらに減退することは間違いないと思います。
市では統合後の小中学校の施設整備や教育などの在りかたを鋭意検討されているようであるが、廃止される小学校施設をどう地域で活用するのかの議論が殆ど聞こえてこないのは、さらに淋しいです。
行政は統合という新しい枠組みづくりには力を注ぎますが、廃止される施設は忘れがちになる傾向にあることは世の常です。
小学校は子供の教育の場と同時に地域の象徴としての地域コミュニティの中心施設であります。
その跡地を地域で何に使うのかは、過去の地域の小学校の跡地活用事例を検証しても明らかなように「地域力」が現れます。
地域が考えないと行政は考えません。
地域から早い目に地域としてこんな活用をしたいとする意見を市に伝えていくことが必要と思います。
里山に囲まれた自然力を武器にし、ヒト、モノ、カネ、情報が大きく交流できる施設に転換してもらいたいものです。
トラックに乗った神輿
遂に村の秋祭の神輿がトラック搭載による巡行になりました。
数100年以上続いた神輿を担ぐ慣行が今年で終わりました。
残念ですが、若手の人材人不足が原因です。担ぎ手が少ないと落下させるなどの事故も心配され、村の責任者の判断で、トラック搬送巡行になったのです。
私達の子供の頃の1960年代は村中の辻々には人びとが溢れかえり、大変な賑わいであったことを思い出します。
神輿の担ぎ手は観衆が居てこそ、重い神輿をできる限りの力で担げるのです。
観衆が居てこその神輿巡行なのです。
ところで、今日は衆議院選挙の告示日です。
担がれる人だけがこじつけの理由で選挙をすると言い切り、担がれる人だけがあの人と一緒に神輿には乗りたくないとか言い出します。
観衆は不在の蚊帳の外にいます。
担がれたいと主張する人より、この人なら担ぎたいと思う人がいる観衆主体の選挙にならんことを望みたいものです。
トラックに載せられた神輿が何気なく淋しさを漂わせている秋祭でした。
神輿あり まばらに凪ぐや すすきかな(呆悦)
葡萄の大義
8月25日から開始しました葡萄の収穫と出荷が今日、9月22日に終了しました。
お買い上げいただきました皆様のご愛顧に感謝申し上げます。
皆様の「美味しかった。」のお声掛けをいただき、この一声を胸に来年の出荷に向かって来週から葡萄のお世話に入ります。
直売所を開いていると毎日、葡萄を買いに来てくださるおじさんがいます。
直売所を開いている日は、毎日です。
私達の農園から買って横流しをしているのではないかと疑うほど毎日です。
横流しするなら10Kg以上の単位で買いそうですが、このおじさんは毎日、1kgぐらいを買うのです。
これだけ毎日なので、当然、顔見知りになり仲良しになります。
葡萄を誰に贈るのか、失礼ながら、彼女に贈るとしても毎日、贈る彼女も多数いる風体でもない。
ある日、「おじさんのお名前を教えてください。
まさか「房雄」さんというのではないですか。」と冗談で問いかける。
「なんでや、私は○雄という者や。なんで房雄と思ったんや。」
「だって毎日葡萄を買ってくれるので、なんとなく葡萄の房の房雄さんと思いましたんや。」
その後、毎日買う理由を聞いて見ると、毎日、一房は自分だけで食べると言います。
今日は葡萄販売の最終日だったので、明日とあさっての分も合わせて買っていいかと、奥様に携帯電話で問い合わせて、今日と明日とあさっての3日間の分という大義で3kgを買い上げいただきました。
可愛い「房雄おじさん、ありがとうございました。」
虫の音や 針に糸通す ひとり暮らし(呆悦)
農村の免許返上の危機
人生の 秋来たるらし ポポ落つる(呆悦)
庭先のポポ(ポーポー)の樹から果実が熟して音もなく落ちます。
ポポ(ポーポー)はドリアンやマンゴーのような果物で、北米原産でアケビガキとも呼ばれ熟すと落下し、その頃が食べ頃です。
熟すと表皮が黒ずんできますので、流通に乗りにくく、まさに地産地消の幻の果物です。
独特の匂いがあり人によっては好き嫌いがありますが、ネットリとした食感がいかにも栄養分の高さを窺える果物です。
ところで、高齢社会で高齢者の自動車事故が社会問題化し運転免許を返上する事例が増加しているようです。
しかし、過疎地の高齢者は返上率が都会に比べて低いようですが当然のこと思います。
過疎地の独居高齢者から車を取り上げると、公共交通機関の不便さから買い物や通院も困難になります。
事故多発防止と過疎地の高齢者の快適な移動手段のジレンマを解決する手法の模索が全国各地で行われいます。
「熟したポポは流通に乗りにくいため、自宅で消費する。」と同じように地域の宝の高齢者を自宅に閉じ込め社会から孤立させてはなりません。
そのためには、政府やメーカーは、高級な自動運転自動車の普及より「高齢者仕様の自動運転車(軽自動車など)」の普及にもっと力を入れてもらいたいものです。
あと20年後には自動車運転免許を返上し、ポポのように熟して庭先でひとり朽ちている姿を想像すると、過疎地の秋の夕暮れはひときわ淋しさを覚えます。
行政管轄のもどかしさ
丹波ほっこり農園では現在、葡萄の直売所を出しています。
直売所の看板を出していると、色々な人が立ち寄っていただきます。
遠くは阪神地域から噂を聞い起こしいただいたり、隣町から通りがかりに立ち寄っていただいたりです。
誘導看板も出さずに直売所前に二枚の看板だけなのに、これだけの来客があるのは「三和ブドウ」の味の良さからなのでしょうか。
ところで、先日、二人の行政関係の人が立ち寄ってくれました。
一人は、お巡りさん。もうひとりは農業改良普及センターの方です。
お巡りさんは「今日は非番なので葡萄を買いにきました。
いつもこの道を通り「管内」の地域を巡回に行くのですが、この道を通らないと私が担当する「管内」の地域に行きにくいのです。
ここは私の管轄地域でないので、勤務中は立ち寄れなくて。」と言います。
一方、農業改良普及センターの職員の方は、「自分の担当の管内のA地区に行った後に管内のB地区に行く予定です。
管外のこの道を通らないと行けないので、通り過ぎようとすると看板を見て、どんな葡萄を販売しているのか向学心のため立ち寄りました。」と。
少し後ろめたさを感じながらの様子の訪問でした。
お二人ともにありがたいお客さんですが、行政の職員の「管内」、「管外」意識の強さを痛感しました。
昔、ドリフターズのコントを思い出します。県境に死体があり、A県のお巡りさんが自分の管内にある死体を発見。
すぐさま隣のB県に引っ張り出し立ち去る。すぐさま、B県のお巡りさんが現場に来て、今度はその死体をA県に引っ張り戻すという繰返しの責任転嫁のコントです。
「管内」は権限と責任の及ぶ範囲を示す重要なファクターなのです。
自分の担当外の「管外」で指導などをすると、権限のない者の行為になりトラブルの原因になります。
また、その地域を管轄する本来の担当職員がこのようなことを聞けば権限を侵されたようで不愉快になるようです。
規律でがんじがらめの今の行政。
通りすがりに他の地域の事情をついでに見聞する程度の「遊び」のこころを行政マンには期待したいです。
お二人の行政関係職員の訪問に感謝感激!!
「一線を守る。」
葡萄の出荷の峠を越えたところです。
出荷している時に、
「この葡萄、祖母が大好きでいつも買っています。いつまでありますか。美味しいですね。」と声を掛けてくれるお客さんがいます。
この一言にやり甲斐を感じます。
また、この一言のために質にこだわっています。
ところで、最近の政界は「一線は越えていません。」という話が多いですね。
「倫理上の越えてはならないことをはしていない。」ということでしょうが、この一線は自ら引いて、その引いた線を越えてないと主張します。
あくまでその倫理線は自ら引いていますので主観的なものです。
果物や野菜の出荷基準も直売所が定める基準の他は、自らで糖度や形、風袋などを定めて出荷しています。
売るためには粗悪品でも出してやれとなると、自ら引いた線(基準)を破ることになります。
会社などの組織体では内部牽制で一線を越えたり、一線を破ったりできないよう法人倫理を定めている場合が多いです。
自ら引いた線を守る倫理的行動基準をしっかり定めて置く必要があります。
しかし、つい色々な事情で揺ぎが生まれ、一線を越えてしまう場合があります。
世間の大多数が考える一線(これはある程度、客観性があります。)を越えた場合は素直に認め、倫理基準を見直し、リセットすべきでしようね。
しかし、「一線を越えない」日々の様々な行動って、個人でも法人でも、政治家でも農家でも商売人でもそれぞれ実は大変、難しいものです。
秋の月 なんとかなしに 艶かし(呆悦)